ハンガリーの作曲家。母にピアノの手ほどきを 受け、1893年からはピアノと作曲をエルケル・ ラースローに学んだ。次いで、ドホナーニ・エル ネーの勧めにより、ブダペスト王立音楽アカデミ ーに入学し、そこでリストの弟子であったトマー ン・イシュヴァーンにピアノを、ケシュレル・ヤー ノシュに作曲を習った。そして1900年に、コダ ーイ・ゾルターンとの交流が始まる。1902年に リヒャルト・シュトラウスの交響詩を知ったことは、 彼の初期の作品に影響を与えた。熱烈な民族 主義者であったバルトークは、1848年のハン ガリー独立革命の英雄を賛美した交響詩「コッ シュート」によって、知られるようになった。当時 ピアニストとしてのキャリアを歩んでいた彼は、 1905年パリでルビンシテイン・コンクールに参 加したが、そこではヴィルヘルム・バックハウス が優勝をさらった。屈辱を味わったバルトークは、 ブダペストへ帰るとハンガリーの民族伝承を熱 心に採集研究する。彼はコダーイとともに、東洋 の遺産と西洋の遺産を統合させようと試みた。こ こで西洋の遺産というのは、和声的感覚に関し てはドビュッシー、対位法の透明さに関してはバ ッハ、また形式に関してはベートーヴェンの教え に基づくものである。 |
1903 交響詩「コッシュート」Sz21 ヴァイオリンとピアノのためのソナタSz20 1904 ピアノとオーケストラのための「ブルレスク」Sz28 ピアノのためのラプソディSz26 |
1907年ブダペスト王立音楽アカデミーの教授 となったバルトークは、ピアノ教育法の改良を試 み学生たちに調性の混合や小節線の相対性に 慣れさせようとした。そうしたことから、1908年 6月の「10のやさしい小曲」に始まり、1937年 に完成する「ミクロコスモス」に至る一連の教育 的な作品群が生まれることとなった。1908年に は「弦楽四重奏曲第1番」を作曲したが、この作 品にはワーグナーとドビュッシーの影響が顕著 に現れている。女性ヴァイオリニストのシュテフイ ・ゲイエルがバルトークにインスピレイションを与 えて「ヴァイオリン協奏曲第1番」が生まれた。 「3つのブルレスク」では、その2番目の曲で、鍵 盤上で<押しつぶされる>装飾音のグループを 主要音の前につけるという新しい技法を使用し ている。1910年には、バルトークはR.シュトラ ウスの影響から抜け出ていたようである。その頃 彼は「エレクトラ」を激しく非難しているのである。 1909年、彼はツィーグラー・マールタと結婚し、 翌年に息子が生まれた。 |
1908 10のやさしい小曲Sz39 弦楽四重奏曲第1番Sz40,op.7 ヴァイオリン協奏曲第1番Sz36 1910 2つのルーマニア舞曲Sz43,op.8a MIDI File Op.8a No.1 (Roumanian Dances for piano solo) ![]() 1908−11 3つのブルレスクSz47,op.8c |
民謡のもつ旋法的な書法とのかかわりは、作 曲家バルトークに「4つの挽歌」の着想をもたらし た。この曲は、<長調・短調の旋法組織の専制> を全く知らない頃の非常に古い歌に基づいている のである。そして1911年という年はピアノのた めの「アレグロ・バルバロ」という衝撃的な動性と ハンガリー語の自然な韻律を特に使用した最初 のオペラである「青ひげ公の城」とによって、注目 すべき年となった。このオペラは、ハンガリーのエ ッセイストで、民衆的なバラードや民話の中にそ の進歩的な政治思想を汲もうとしたバラージュ・ ベラとバルトークの協力がもたらした、最初のき わめて実りある結果であった。これは伝統的な 枠を越えたものであり、創造者すべての孤独、 すなわち無益な知識を渇望することによって愛と いう財産すべてが破壊されるということを表現し ている。1913年には、コダーイとバルトークは アラブとカビリアの歌を200編採集し、モンゴル やハンガリー、フィンランド地方の民謡までも採集 した。当時のバルトークの教育上の意向は、彼 の発見した民族音楽を再創造したいという希望と 一致していた。だが、第1次世界大戦が勃発して 彼の探求の道は阻まれた。 |
1911 4つの挽歌Sz45 アレグロ・バルバロSz49 歌劇「青ひげ公の城」Sz48 op.11 1913 東洋の舞曲Sz54 1915 ルーマニアの民族舞曲Sz56 20のルーマニアのコリンダSz57 9つのルーマニア民謡Sz59 5つの歌曲Sz61、63 1917 8つのハンガリー民謡Sz64 弦楽四重奏曲第2番Sz67 op.17 |
戦争直後、バルトークは、新政府の援助を受け られるという希望を突然もった。しかし、この新政 府は偏狭なナショナリズムの枠内にとじこもった ものであったので、国家という枠をあえて超越し ようとしていた彼の作品を非難した。その時以来 バルトークは、彼独自の方法で再創造することが 可能な音楽的素材を用いた。ブダ市とペスト市の 合併50周年記念行事のたみに彼に作品が委嘱 された。「舞踏組曲」である。また、1923年には バルトークは妻と別れ、パーストリ・ディッタと再婚 した。当時彼はスカルラッティやイタリア・ルネサ ンス時代のチェンバロ奏者たちなどを研究してい た。「弦楽四重奏曲第3番」でフィラデルフィアの コンクールに入賞し、初めてのアメリカ旅行を経験 した。 |
1923 舞踏組曲Sz77 1926 ピアノ協奏曲第1番Sz83 (フルトヴェングラー指揮バルトーク独奏で初演) 1927 弦楽四重奏曲第3番Sz85 1928 ヴァイオリンとピアノのためのラプソディ第1番Sz86 (ヨーゼフ・シゲティに献呈) 同第2番Sz89 |
1930年の「カンタータ・プロファーナ」において、 バルトークはある伝説的主題を借用した。すなわ ち、ある農夫の9人の息子が鹿に姿を変えられて しまうが、自由を見つけ出すという物語である。こ の主題は、すべての奴隷的境遇にいる人々にと って、理解の欠如と戦争との絶望的な悪循環を もたらす屈従よりもつねに望まれるべき独立を求 め危険を冒す必要、そしてさらに生きかつ歌う必 要をひとつに溶け合わせている。1935年の4月 にはワシントンで「弦楽四重奏曲第5番」が初演 された。その形式の完全さ、張りつめた表現主義 そしてリズムの対位法の複雑さは、この作品を彼 の室内楽創造の頂点に位置するものとしている。 そして1936年には、ナチズムの台頭への憂慮を 表明するために、自分の作品がユダヤ人作曲家 たちの作品と同じ運命(発行及び演奏の禁止)を 受けることを願った。 |
1930 カンタータ・プロファーナ「9匹の不思議な雄鹿」Sz94 1931 44の2重奏曲(Vn)Sz98 ピアノ協奏曲第2番Sz95 1934 弦楽四重奏曲第5番Sz102 1936 弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽Sz106 1937 ミクロコスモスSz107 同上〜Allegro(リコーダー三重奏版) 2台のピアノと打楽器のためのソナタSz110 1938 ヴァイオリン協奏曲第2番Sz112 1939 弦楽のためのディヴェルティメントSz113 |
1939年、アメリカへ旅行してシゲティと知り合っ たバルトークは亡命を決意した。ニューヨークに落 ち着きコロンビア大学の研究員として滞在して何 度か講演も行ったが、経済的には非常に質素な 生活であった。彼は、シゲティ、ジャズ・クラリネット 奏者のベニー・グッドマンの両者と共演するコンサ ート(「コントラスツ」)を何度か行った。しかし彼の 健康状態はしだいに悪化していった。白血病に侵 されていたのである。だが、1943年には指揮者 クーセヴィツキーの委嘱によって、ボストン交響楽 団のために「協奏曲」を作曲した。ユーディ・メニュー インの依頼も受け、「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」を 書いた。それらが成功を収め、多くの依頼を受ける ようになった。第2次世界大戦の末期のことであっ た。バルトークの生きる望みは、もはやブダペスト への帰国にしかなくなっていた。しかしそれもむな しく、1945年9月26日にニューヨークのウェストサ イド病院でその生涯を終えた。 |
1938 クラリネットとヴァイオリンとピアノのためのコントラスツSz111 1943 管弦楽のための協奏曲(いわゆる「オケコン」)Sz116 1944 無伴奏ヴァイオリン・ソナタSz117 1945 ピアノ協奏曲第3番Sz119 (最後の17小節のオーケストレイションはシェルイ・ティボルによる) ヴィオラ協奏曲Sz120 (ソロ・パートのみ完成。S.ティボルが編曲・オーケストレイション を完成) |
いつになるかわかりませんが、楽譜を持っている ものを順次MIDIでお届けする予定です。 1998.9.15 "Roumanian dances Nr.1" Op.8a 完成 |
〜ラルース 世界音楽人名事典 より〜
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