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Bartok Bela (1881-1945)

1881 ナジュセントミクローシュ、現ルーマニアに生まれる
1945 ニューヨークにて没

生涯    : おもな作品

ハンガリーの作曲家。母にピアノの手ほどきを
受け、1893年からはピアノと作曲をエルケル・
ラースローに学んだ。次いで、ドホナーニ・エル
ネーの勧めにより、ブダペスト王立音楽アカデミ
ーに入学し、そこでリストの弟子であったトマー
ン・イシュヴァーンにピアノを、ケシュレル・ヤー
ノシュに作曲を習った。そして1900年に、コダ
ーイ・ゾルターンとの交流が始まる。1902年に
リヒャルト・シュトラウスの交響詩を知ったことは、
彼の初期の作品に影響を与えた。熱烈な民族
主義者であったバルトークは、1848年のハン
ガリー独立革命の英雄を賛美した交響詩「コッ
シュート」によって、知られるようになった。当時
ピアニストとしてのキャリアを歩んでいた彼は、
1905年パリでルビンシテイン・コンクールに参
加したが、そこではヴィルヘルム・バックハウス
が優勝をさらった。屈辱を味わったバルトークは、
ブダペストへ帰るとハンガリーの民族伝承を熱
心に採集研究する。彼はコダーイとともに、東洋
の遺産と西洋の遺産を統合させようと試みた。こ
こで西洋の遺産というのは、和声的感覚に関し
てはドビュッシー、対位法の透明さに関してはバ
ッハ、また形式に関してはベートーヴェンの教え
に基づくものである。
1903
交響詩「コッシュート」Sz21
ヴァイオリンとピアノのためのソナタSz20
1904
ピアノとオーケストラのための「ブルレスク」Sz28
ピアノのためのラプソディSz26
 1907年ブダペスト王立音楽アカデミーの教授
となったバルトークは、ピアノ教育法の改良を試
み学生たちに調性の混合や小節線の相対性に
慣れさせようとした。そうしたことから、1908年
6月の「10のやさしい小曲」に始まり、1937年
に完成する「ミクロコスモス」に至る一連の教育
的な作品群が生まれることとなった。1908年に
は「弦楽四重奏曲第1番」を作曲したが、この作
品にはワーグナーとドビュッシーの影響が顕著
に現れている。女性ヴァイオリニストのシュテフイ
・ゲイエルがバルトークにインスピレイションを与
えて「ヴァイオリン協奏曲第1番」が生まれた。
「3つのブルレスク」では、その2番目の曲で、鍵
盤上で<押しつぶされる>装飾音のグループを
主要音の前につけるという新しい技法を使用し
ている。1910年には、バルトークはR.シュトラ
ウスの影響から抜け出ていたようである。その頃
彼は「エレクトラ」を激しく非難しているのである。
1909年、彼はツィーグラー・マールタと結婚し、
翌年に息子が生まれた。
1908
10のやさしい小曲Sz39
弦楽四重奏曲第1番Sz40,op.7
ヴァイオリン協奏曲第1番Sz36
1910
2つのルーマニア舞曲Sz43,op.8a
 MIDI File Op.8a No.1 (Roumanian Dances for piano solo)

1908−11
3つのブルレスクSz47,op.8c
 民謡のもつ旋法的な書法とのかかわりは、作
曲家バルトークに「4つの挽歌」の着想をもたらし
た。この曲は、<長調・短調の旋法組織の専制>
を全く知らない頃の非常に古い歌に基づいている
のである。そして1911年という年はピアノのた
めの「アレグロ・バルバロ」という衝撃的な動性と
ハンガリー語の自然な韻律を特に使用した最初
のオペラである「青ひげ公の城」とによって、注目
すべき年となった。このオペラは、ハンガリーのエ
ッセイストで、民衆的なバラードや民話の中にそ
の進歩的な政治思想を汲もうとしたバラージュ・
ベラとバルトークの協力がもたらした、最初のき
わめて実りある結果であった。これは伝統的な
枠を越えたものであり、創造者すべての孤独、
すなわち無益な知識を渇望することによって愛と
いう財産すべてが破壊されるということを表現し
ている。1913年には、コダーイとバルトークは
アラブとカビリアの歌を200編採集し、モンゴル
やハンガリー、フィンランド地方の民謡までも採集
した。当時のバルトークの教育上の意向は、彼
の発見した民族音楽を再創造したいという希望と
一致していた。だが、第1次世界大戦が勃発して
彼の探求の道は阻まれた。
1911
4つの挽歌Sz45
アレグロ・バルバロSz49
歌劇「青ひげ公の城」Sz48 op.11
1913
東洋の舞曲Sz54
1915
ルーマニアの民族舞曲Sz56
20のルーマニアのコリンダSz57
9つのルーマニア民謡Sz59
5つの歌曲Sz61、63
1917
8つのハンガリー民謡Sz64
弦楽四重奏曲第2番Sz67 op.17
 戦争直後、バルトークは、新政府の援助を受け
られるという希望を突然もった。しかし、この新政
府は偏狭なナショナリズムの枠内にとじこもった
ものであったので、国家という枠をあえて超越し
ようとしていた彼の作品を非難した。その時以来
バルトークは、彼独自の方法で再創造することが
可能な音楽的素材を用いた。ブダ市とペスト市の
合併50周年記念行事のたみに彼に作品が委嘱
された。「舞踏組曲」である。また、1923年には
バルトークは妻と別れ、パーストリ・ディッタと再婚
した。当時彼はスカルラッティやイタリア・ルネサ
ンス時代のチェンバロ奏者たちなどを研究してい
た。「弦楽四重奏曲第3番」でフィラデルフィアの
コンクールに入賞し、初めてのアメリカ旅行を経験
した。
1923
舞踏組曲Sz77
1926
ピアノ協奏曲第1番Sz83
(フルトヴェングラー指揮バルトーク独奏で初演)
1927
弦楽四重奏曲第3番Sz85
1928
ヴァイオリンとピアノのためのラプソディ第1番Sz86
(ヨーゼフ・シゲティに献呈)
同第2番Sz89
 1930年の「カンタータ・プロファーナ」において、
バルトークはある伝説的主題を借用した。すなわ
ち、ある農夫の9人の息子が鹿に姿を変えられて
しまうが、自由を見つけ出すという物語である。こ
の主題は、すべての奴隷的境遇にいる人々にと
って、理解の欠如と戦争との絶望的な悪循環を
もたらす屈従よりもつねに望まれるべき独立を求
め危険を冒す必要、そしてさらに生きかつ歌う必
要をひとつに溶け合わせている。1935年の4月
にはワシントンで「弦楽四重奏曲第5番」が初演
された。その形式の完全さ、張りつめた表現主義
そしてリズムの対位法の複雑さは、この作品を彼
の室内楽創造の頂点に位置するものとしている。
そして1936年には、ナチズムの台頭への憂慮を
表明するために、自分の作品がユダヤ人作曲家
たちの作品と同じ運命(発行及び演奏の禁止)を
受けることを願った。
1930
カンタータ・プロファーナ「9匹の不思議な雄鹿」Sz94
1931
44の2重奏曲(Vn)Sz98
ピアノ協奏曲第2番Sz95
1934
弦楽四重奏曲第5番Sz102
1936
弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽Sz106
1937
ミクロコスモスSz107
同上〜Allegro(リコーダー三重奏版)
2台のピアノと打楽器のためのソナタSz110
1938
ヴァイオリン協奏曲第2番Sz112
1939
弦楽のためのディヴェルティメントSz113
 1939年、アメリカへ旅行してシゲティと知り合っ
たバルトークは亡命を決意した。ニューヨークに落
ち着きコロンビア大学の研究員として滞在して何
度か講演も行ったが、経済的には非常に質素な
生活であった。彼は、シゲティ、ジャズ・クラリネット
奏者のベニー・グッドマンの両者と共演するコンサ
ート(「コントラスツ」)を何度か行った。しかし彼の
健康状態はしだいに悪化していった。白血病に侵
されていたのである。だが、1943年には指揮者
クーセヴィツキーの委嘱によって、ボストン交響楽
団のために「協奏曲」を作曲した。ユーディ・メニュー
インの依頼も受け、「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」を
書いた。それらが成功を収め、多くの依頼を受ける
ようになった。第2次世界大戦の末期のことであっ
た。バルトークの生きる望みは、もはやブダペスト
への帰国にしかなくなっていた。しかしそれもむな
しく、1945年9月26日にニューヨークのウェストサ
イド病院でその生涯を終えた。
1938
クラリネットとヴァイオリンとピアノのためのコントラスツSz111
1943
管弦楽のための協奏曲(いわゆる「オケコン」)Sz116
1944
無伴奏ヴァイオリン・ソナタSz117
1945
ピアノ協奏曲第3番Sz119
 (最後の17小節のオーケストレイションはシェルイ・ティボルによる)
ヴィオラ協奏曲Sz120
 (ソロ・パートのみ完成。S.ティボルが編曲・オーケストレイション
 を完成)
いつになるかわかりませんが、楽譜を持っている
ものを順次MIDIでお届けする予定です。
1998.9.15 "Roumanian dances Nr.1" Op.8a 完成

〜ラルース 世界音楽人名事典 より〜

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